昭和47年6月2日 朝の御理解
                      中村良一
御理解 第78節
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けことができるぞ。」



神の大恩とか、神のおかげを知らぬとか、ありますね。勿論、天地金乃神様の事でございます。天地金乃神様、いわゆる、天地の大恩、同時に、金という、天地金の神と、天地の神と仰る。天地金乃神と、教祖は仰っておられます。私は、この、天地の中、いわゆる、天地人という事を申しますね。その人のことだと思う。天地人。
私は、毎朝、ここへ出てまいりましたから、この、いわゆる、天地を拝ませて頂く訳ですけれども、その時に、天地を拝んで、それから、人を拝む。それは、御本部にお出でます金光様を。それから、日本のお国の中心であるところの、天皇陛下ご夫妻を、まぁ、拝むと言うか、ご挨拶を申し上げるのです。天、地、人、ですね。私はあの、金光球が、朝、お出ましの時に、必ず、途中であの、東のほうを向いて、礼拝をなさいますのが、どこを拝みよりなさるのだろうかと思いよった。そしたら、あの、聞かせていただきますと、何でも、ご自分の、金光様のお宅の、奥城に向ってと、やはり、天皇陛下にご挨拶なさるのと、二所、止まってから、お礼なさるですね。は、だという事を利かせていただきましたけれど。確かに、だから、その、天地人、人という事の中には、もう、天地の中にある、もう、これは、人だけではなくて、もの、一切、全てがあると思うです。ね。ですから、ものの恩というても良かろう。お金なら、いわゆる、金の恩と言うても良いであろう。または、人の恩と言うても良いであろう。そこに、恩義を感ずる、全てのものを、私は、天地金乃神という、その金乃神の所を頂いております。勿論それが、天地の大恩という事は、勿論。だから、それが、分かれば、それを知ればと仰るのですから。どうでもやはり、分からなければいけないところですね。神の大恩を知れば、無事達者で、子孫も続き、身代も出来、一年まさり代まさりのおかげを受けられると仰るのですから。どうでも、そこの、天地金乃神の大恩が分からなければいけません。ですからこの、恩が分かるという事は、必ず、恩に報いると言うことの心が、おのずと生れてこなければなりません。ただ、大恩を知っとると言うだけじゃいかん。やはりその、恩を感じなければならん。ね。
難儀な時分に、まぁ、人に親切にして貰うたり、助けて貰ったりと。それを、本当に、やはり、その時に嬉しかった。本当に有難かったならば、やはり、一生忘れられません、その事は。そして、それが、何かの機会で、ご恩返しをする様な事でも起きてきたら、もう、いち早く、その恩に、それこそ、無条件で、報いたいと言う心が起こってまいりますね。私はその、恩を知らぬからと仰るが。恩を知ったら、それは、その様な事にならなければ嘘です。お話を聞いてみりゃ、はぁ、なるほど、天地の大恩だと、天地の大恩が分かっただけでは、何にもならん。
私、まだ、椛目の、いわゆる、引き揚げて帰って、間もなく、あの、妹の婿が亡くなりました時に、お棺を作るのに、釘がなかった。火葬場に、自分が車力で引っ張って行きましたけれども、その、普通の、製剤所の脇落としの、場板を持っていった。こべなもんで、どうして焼くるかて、おんぼさんが言うもんですから、また、取りに帰ったけれども、その時分に、割り木と言うものがなかった。ね。私共の上に、井上さんという、大変物持ちのお家がありますが。そこの家にはもう、ずーっと、家のぐるりに、割り木を積み上げてある事を知っておりましたから。そこへ相談に参りました。そしたらもう、本当に、快う、その割り木を、あの、貸してくださいましたし、また、お棺を作るのに、釘がないから、それであの、内田さんの本家に当たります、宮崎さんて言う所のうちに、いわゆる、闇の釘を持っておられましたから、釘を相談に来ましたら、快う貸してもらった。もう、そん時のことが忘れられない。ね。もう、ですから、あの、井上さんと、その宮崎さんから、まぁ、それだけの事じゃないですけれども、まぁ、色んな、もう、本当にそん時の事だけは忘れられない。もう、胸の病気で死にましたからね。あの時分はもう、それこそ、あのこれは、私のほうに限らぬのですけれども。もう、例えば、近所、門内でも、その、いわば、そのうちでは、色々、あれはせんというぐらいに、あの、大変嫌われる病気でございましたからね。その時に親切にしてもらった。ね。という様にその、もう、その事が忘れられない。その割り木を、私が、その、火葬場に行ってから、また取りに来ましたから、その割り木はないわけです、どこでもね。そん時に、私の、こんな大きな木の根っ子があった。もう、そりゃ、あの、割ろうと言うても割れないのですよね。それを、今のあの、内田さんのご主人です。今の公子さんのお父さんになります方が、もう、それを親切に、もう、一生懸命に割ってくださった。それで、少しばっかり出来た。それでも足らんというので、井上さんところに借りに行った。まぁ、いよいよ、人間の、困り果てておる時ですね。それをして頂いた事は、何時までたっても忘れられない、ね。
今度その、椛目の知り合いの方達が、何人も、怪我をされました時に、井上さんの所の、その、息子さんやら、宮崎さん所の息子さんが入っておられた。ね。もう、本当に、ご恩に報いる時は、この時とばかりに、私は、一生懸命、神様に御祈念させていただいた。ね。これは、誰に言う事でも、語る事でもないけれども、もう、それはもう、常日頃、もう、二十何年になるけれども、忘れられない。おそらく、一生忘れられないだろう。本当に、人に親切は、しておかなければならんなと思いますよ。ね。今、申します、だから、そこに、恩を感じたらね、それに報いさせてもらわなければおられないと言う心が、生れてこなかったら、駄目だという事ですね。神のおかげを知らぬからと。互い違いになるとか。神の大恩を知れば、無事達者でおかげが頂けれ、無事達者で子孫も続きとこう仰る。ね。だから、その、神の大恩、天地の大恩は、言うに及ばずですけれども。ほんなら、これは、天地人という事になる。ほんなら、人という事。これは、社会の恩の中に入ってますでしょう、ね。それから、特別に、只今申しますように、ご恩を受けた、その事に対する恩も、もう、一切の恩だと思いますね。天地金の金という事は。だからね、そういう心掛けの人ならばです。それこそ、今日は、おかげの泉、おかげの泉という事を繰り返し頂きます。あの、今月のおかげの泉が出てるんですけれども。これですよね、おかげの泉。私は、今日ほど、このおかげの泉という事を、ただ、こりゃ、その、この本の、まぁ、本の名前がおかげの泉なんだけれども。それこそ、汲んでも汲んでも尽きぬほどのおかげ、ね。いわゆる、一年まさり、代まさり、親の代よりも子の代と、尽きぬおかげの頂けれるという事はです。その、おかげの泉を、発見すると言うかね。おかげの泉が、身に付くとか、家に備わるという様なおかげを頂く為には、どうしても、天地金乃神の大恩を知らなければいけません。ね。知るというのは、ただ、頭で知るという事だけではない。それを、本当に感じるところまで、行かなければいけません。
それは、ほんなら、私が、二十寸年前に、ね。ただ、一握りの釘を頂いた。何羽かの割り木を貸して貰うた。ね。とても、普通では出来ないような、いわば、割り木を作って下さった時の、その、ほんなら三人なら三人の方の事を、何時までたっても忘れられない。ね。そして、本当に、何時か、何かの時に、ほんなら、一遍、恩を返したから、もう、それで言いという事では、決してない。ね。もう、これは、一生、いうなら、限りなく、それを感じる、恩を感じる。だから、それに対して報いる。その報いる、限りなく報いようとする、その心に、限りないお恵み、限りないおかげが頂けるんだと、私は思うです。ね。あん奴ばっかりは、恩も何も知った奴じゃない。義理も人情もなかと、まぁ、言われる人がありますよね。だから、そういう人は、決しておかげは受けられませんよ。ね。いわゆる、恩を忘れる。同時に、忘恩の生活をする。第一、天地の大恩。信心がない間は、もう、当たり前の事の様に思うておった。その、当たり前の様な事が、とてもとても、当たり前の事ではない。天地のご恩恵に浴しなければ、私共の、生き生きとして、生き抜かせて頂くことは出来ない。そこでです、私共が、ほんなら、おかげを知らぬからと、こう仰せられる。ね。
ですからその、おかげを知らぬから、例えば、その天地の大恩を、いわば、懇々と、説き聞かせられても。はぁ、なるほど、そうだなぁ、ひと掬いの水だって、ね。一塊のお土だって、もう、本当に、天地の親神様のお姿も同然だ。その御恩恵無しには、私共が、生きては行けぬのだと分かっただけではなくてです。それに、報いなければおられない。一遍、報いたから、それで良いと言うのじゃない。もう、これは、私の、一生、生きておる限りです。なら、今の、井上さんやら、宮崎さんやら、内田さん達に対する、ご恩というものは、忘れられる事ではない。ね。いつも、それに、報いたい。報いさせてもらわなければ、機会があったならという様なものを、何時も、自分の心のなかに頂いておる様にです。その、報いる心があるからです。報いられるのです。
天地に対する大恩も同じことです。ね。だから、天地の大恩を説き聞かせられりだけではいけない。そこで、天地の大恩を知るためにはと言うこと。生き生きとした天地のお恵み、御恩恵というものが、説明を聞けば分かるのだと。けど、分かっただけで、それに報いようと言うところがないところに、喜びも何もないのです。あの、報いる心、そのものが、私は、和賀心だと思うね。ね。ご恩に報いる、報いる心、それはもう、和らいだ心が無い様になからなければ、それこそ、報いられる事が有難い。ご恩返しが出来るという事が有難い。これが、喜びの心、賀の心。和賀心。ね。恩に、いわば、報いねばおられない心が和賀心だと。そこで、おかげを知らなければならない。神のおかげを知らぬから、互い違いになると、こう仰せられる。
昨日、午後から、古谷さんところのご主人の、百日祭が、ご親戚の方達が、みんな集まられましてから、本当に有難い、百日の御霊様のお祭りがございました。その御霊様のお祭りの時に頂きました御理解ですけれども、例えば、魚を、ね。煮て食べる時、人間が。時にはもう、頭も要らなければ尻尾も要らない、ひれも要らない。ね。これは、しかし、人間が食べる時のことであって、ほんなら、その魚自体が、ね。水中でもう、それこそ、自由自在に泳ぎ回られる、泳ぎ抜かれると言う為には、勿論、頭なからにゃいけんけれども、ひれも尻尾もなからなければね。生き生きとして、泳ぎまわることは出来ない。私共が、世の荒波を切り抜けるとか、ね。もう、それこそ、有難い、勿体ないで泳ぎ回れれるおかげを頂くためにはです。どうでも、そこは要らんとこだと思う。ひれやら尻尾やらを大事にしなければいけないという御理解でした。ね。私共は、ただ、お願いして、ほんな、おかげの良かとこだけば貰おうとする。ただ、自分の思うごとだけ、思いが成就することだけが、おかげのように思うておる。ね。それは、人間が思うだけであって、神様は、それは、おかげと思うちゃござらん。ね。もう、本当の、いうならば、幸せ、本当の幸福というものを、人間氏子が感じてくれる時に、神様の願いが叶うたと言うても良いでしょう。ただ、願うたことだけが成就する。ただもう、身のとこだけ食べれば、それで良かと言うのではなくてです、ね。いうなら、その、要らんとこであるところの、ひれも尻尾も大事にさせて頂くからこそ、生き生きとして、ね。魚が、水中を泳ぎ回ることが出来る様にです。私達がね、天地の大恩を聞かせてもらう。ね。天地金乃神様のご恩を聞かせてもらう。なるほどなるほど、今までは、本当に、天地に対するところの、ね。ご恩も感じたこともなかった、感謝の心も起こらなかった。んにゃ、話を聞けば、感謝の心ぐらい起ころうばってん、ほんなら、それに報いようと言うものが無いならば、それはもう、感じていないも同じことなんです。
例えば、ほんなら、これが、対、人間の場合であってもです。ね。私の弟が亡くなった時に、一握りの、いうならば、釘を、快う貸して貰うた。何羽かの割り木を、さぁどぷぞと言うて貸して貰うた。ね。もう、そん時にはもう、心の、それこそ、芯の髄まで有難いと思うた。ね。ほんなら、思うたから、それに対するところの、報いる心というものは、もう、私から、一生涯離れない。もう、一遍、お返ししたけん良いと言った様なのじゃ、決して無い。ね。だから、なんか、機会があったら、チャンスがあったら、本当にご恩返ししなければならないと言う心が、私の心の中に、何時も、あるように。天地の大恩を、本当に、本当に有難いと実感させて頂いたら、その天地の大恩に対して、報いる心というものが、神恩報謝の生活と言うのです。その、報いる、その心そのものが和賀心なのです。ね。あの人から、あん時に、一握りの釘ば借っとったけん、いつまっでんお返しせんならん。こげなものじゃ、決してないのです。ね。
先日、ある教会の先生が、親教会に対する、あなたの考えは、どげなものに、・・・。最近は、もう、親教会、子教会の、いわゆる、断絶の問題という様な事がね、その言葉が、断絶という言葉が流行るように、教会でも、それがあると。親教会は、あれは家の出社だと言うて言う。それで子供は、そりゃそうじゃろうけれども、と言ったような、あれがあるが、こちらの先生は、どういう風なことを感じられますかと、こう言われるから、私は申しました。それは、例え、私が、親教会に、何ほどの御用が出来たとしてもね。それはね、もう、利払いという事だけぐらいな事でしょうと。一生かかって、いや、何代かかったって、元金を払うという事は出来ません。いわゆる、あの時助けて頂かなかったら、合楽は無いと言うことなんですからね。いうならば。ですから、私が、どれだけ、ほんなら、親教会に御用が出来たとしても、それは、いうならば、借りておる利払いをしておるだけのことなのだ。そして、なら、私一代も、利払いをしたけん、終わったという事じゃないて。これはもう、何時の、何代、合楽のある限りです。親教会のある限りです。この関係というものは、もう、これで終えたという事は、決してないです。もう、いい加減御用させて貰ったけんでという様な事は無いて。幾ら、させて頂いても、それは、もう、おかげのことを思うたら、利払いでも足らない位の事だ。しかも、私一代で終わると言う様な事じゃない。そういうもんですかね、と言うてその、先生、まぁ、感心されました。けども、これは、私の、本当の心なのですから、親教会に対する。ね。そういう、いわゆる、おかげを知るから、私はおかげいただいとると思うです。知るだけではない。それに、何時も報いようとする心がるから、私は、いわゆる、おかげの泉である。汲んでも汲んでも、尽きぬほどのおかげを受けられておると、私は信じております。ね。そこでです、なら、天地の大恩を知るという事でもです。天地の大恩を知るためにです。今、あなたには、それは、分の悪いこと、要らないこと、困った事でありましょうけれども、それは、魚のひれやら尻尾のようでありましょうけれども、それを大事にしなければいけませんよと言うのが、成り行きを大事にしなければいけないよ。御事柄として頂かなければと言うのが、それなんです。それを頂くから、ね。いうならば、天地の大恩の中を、それこそ、有難く泳ぎまわることが出来るのである。ね。自分の、ただ、都合の良かとこだけ。もう、身のとこばっかり、ちっと貰や良かと言ったようなけちな信心ではなくて、ね。その全体を頂かせて貰うと言う信心。ね。そういう、例えば、信心をさせて頂く時に、もう、それこそ、生き生きとして、神様を、日々、刻々、感じさせて貰うての生活が出来る。そこに、どんなに考えてもおかげだなぁ、有難いなぁ、神様のお働きに恐れ入ってしまうなぁ、という、恐れ入った生活が出来るのである、ね。良いですか。神の大恩を知るだけじゃいかん。ね。それを実感して、それに報いなければおられない心が湧かなければいけない。ね。しかも、それはもう、報いたから、これで済んだと言うものではない。もう、限りなく、ね。あん時のことを思うたら、どうかして、本当に御用に報いなければおられないと言う、その心がです。尽きぬ、限りないものである限り、おかげの泉である。おかげはもう、泉のように、私はいただける。いわゆる、子孫も続き、身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることが出来るという事になると思うのでございます。ね。
金光様のご信心は、どうでも、だから、天地金乃神様のご恩徳を、先ず、分からなければいけない。分かって、それが、実感として分からせて頂くことの為に、一つ、教えを行じなければいけない。要らん、こげなものは、向こうにお返ししたい様な事であってもです。ね。それを、まぁ、辛かろうけれども、合掌して受ける気にならせて頂くようなところから、生れてくるのが体験。なるほど、神様のご恩恵なしには、なるほどそれも、要らんものの様に思うておったけれども、それも神愛の現れであったなと分かってくる時にです。もう、限りない、神恩報謝の心が湧いてくる。同時に、ね。報いなければおられない心が、いわば、神恩報謝なのですけれどもです。毎日毎日がです、一生懸命、御用させていただいておる、その事もです。神恩報謝の現われが、日々の御用という事になってきたら、毎日が有難い事になってくるでしょう。そういう信心にならせて頂いた時こそ、信心が、まぁ、身に付いた、肉になったという時じゃないでしょうかね。どうぞ。